介護士シュカの読書メモ

認知症、介護の本etc... 読んでみた

『東大教授、若年性アルツハイマーになる』

 

東大教授であった若井晋氏が若年性アルツハイマーになり、病識の苦悩や認めるまでに至る経緯、東大教授野職を辞し、アルツハイマーと向き合い亡くなるまでの日々を、妻克子氏によってまとめられています。アルツハイマー発症以前の晋氏の様子も挿入され、病気で人が変わるのではなく、人生とはなにか、あるがままの自分とはになにかついて考えを巡らせました。

残していたメモや東大教授時になにかが違うというひっかかるものを感じたエピソード、検査などにまず触れ、晋氏が「自分はアルツハイマーではないか」とひとりで疑い苦悩する様子などが冒頭から続きます。

その後沖縄移住をされたあと、また栃木へ戻り。克子さんが介護しながら講演、執筆などアルツハイマーを公表された晋氏の活動が書かれています。

とても興味深く感じたのは、講演や執筆という社会的に評価される活動だけにスポットをあて、こんなこともできたと言うよい一面だけではなく、言葉が出てこなくなる、排泄の失敗への心配、プライドを損ねないようにとの思いなど、活動の裏にある家族の心配や不安も描かれていました。

当然と言えば当然ですが、晋氏は体の機能も衰えていきます。教科書的には、アルツハイマーになり認知機能の衰え、身体機能が衰え寝たきりになり死に至るということですが、その様子も詳しく書かれていました。

介護保険の利用が思いのほか年数が経ってからというのも驚きました(2006年59歳、東大辞職、介護保険申請2010年63歳、要支援1の判定)。介護保険申請時に立ち上がり困難になってきたと言えことですが2012年にデイ初利用、2015年要介護5になったと書かれていました。各人の差はありますが、実際どういう経緯を辿るのか、どういう介護が必要になっていくのかということを知ることができるという点はとても参考になりました。その人らしい人生を送れるようにというのが介護職に求められるものですが、できること、本人の人生、生活を尊重するというのは本当に大変なことだと感じました。デイに馴染めず大声を上げること、周囲から大変な人と思われること。その中で晋氏が語った言葉が印象に残ります。

晋はときどき「僕は人扱いされていない」とこぼすことがありました。(中略)

晋の友人数人が、わざわざ自宅にお見舞いに訪ねてくださったことがあります。

「やあ、元気そうじゃないか」

開口一番、みなさん口々にそう話しかけてくれるのですが、そのあとは晋に関係のない 話ばかりをして帰って行かれました。客が去った後はこうつぶやいていました。

「たいへんだったなあ、と一言、言ってくれればよかった」P208-209)

がんを患った友人が訪問し「たいへんでしたね」と一歩近寄ってくれたという出来事で、晋氏の何かが変わったように見えると克子さんが述べています。寄り添うというのはとても難しいことだと改めて感じました。誰かのために何かをする、自己の都合ではなく、「してあげている」という意識ではなく、相手を尊重し思うこと、わがままを聞くことではないのです。日々心に留めたいと思いました。

『シンクロと自由』

 

面白い本です。介護の本というジャンルに入ると思いますが、こういうケアをするとよいというような内容ではありません。こういう人がいて、それを巡る一連の出来事というより感じです。

介護をするという中は、家族、職員等の介護する側の「都合」が介在しているものだと改めて感じました。

介護される人は自分の世界を生きていています。周囲が「徘徊」で行方不明として探し回り、見つかってよかったとお互い喜ぶかと思いきや、「先を急ぎます」と言われるというエピソードを読み、周囲からの見方と当事者の見方の相違を感じました。当事者はこの場合道に迷って困っている、帰れなくて不安になっている訳ではないのです。

また逆に帰りたい当時と帰らせられない介助者のについて書かれています。

ぼくたちの立場からすると、お爺さんを帰すわけにはいかないのである。あれやこれや 理由をつけて「帰すまい」とするぼくたちにお爺さんは怒り出してしまう。 居をお爺さんは了解できていた 「なぜ、自分の家に帰ることができないのか」「そもそも、あなたは何者か」「いったい何の権限があって私をここに引き止めるのか」「お願いだから帰してほしい」「お前たちは何様だ!」 ほとばしる感情にぼくたちは途方に暮れる。お爺さんの荒ぶる感情は認知症状ではない。「家に帰りたい」という気持ちに症状などない。 ぼくたちに突きつけられているのは、お爺さんの「家に帰りたい」にどう応えるのかである。 タイミングがずれてシンクロしそこなったときこそ、尊重すべき相手の輪郭が現れる。(P135-136)

荒ぶる感情は認知症状ではない、という部分にはっとさせられました。認知症だから、こちらは心配している、あなたのためを思ってやっているというような理由をつけていると思いました。

「それは、仕方のないことだった」 とお爺さん自身が 受け入れるまで付き合う姿勢がわたしたちには必要なのではないか。認知症状を理由に、その プロセスをショートカットしない態度が問われているように思える。(P136)

しかし、実際に帰るのは難しいものです。そこにどう妥協点を見出すか、というのが一緒に歩くより仕方ないと書かれているのがなるほどと感じました。よくある事例集等では、本人が納得いくまで話を聞くとか、徘徊に付き合って歩くとか、書いてありますが、毎回そうするのかとか、そのうち徘徊しなくなるのかとか、それでどうなるのか実際のところよくわからなかったのですが、1回だけの対応ではなく、繰り返す様子が書かれています。認知症状が段々と症状が進んでいく方(利用者ですらない)に接している様子も書かれていて、こういう時こうしたら良くなったという単純明快なことではなく、本人に自覚なくて介護保険の利用すらしていない、施設を利用しないで成り立っている一人暮らしについての章はとても興味深く感じました(第8章「たそがれるお爺さん」)。

ぼくの考える余白とはお年寄りの「繰り返し」に付き合うこと。(P265)

一人暮らしは困難になって来ているけれど、気を揉んで施設入所させるのではなく、浮遊しているように暮らしているという言葉が印象的です。

傍から見て危うい暮らしぶり=施主入所、保護が本人にとって果たして幸せなのだろうか?と感じることがあります。住居や食事、健康管理などの保証はされていますが、自由があると言えない暮らしになります。「シンクロと自由」というタイトルに深みを感じました。

 

『セックスと超高齢社会』

 

高齢者の恋愛、性欲についてはないもの、あってはならないものという意識が多くの人にある。しかしながら、1970年代に刊行された本には既に多くの高齢者が恋愛、性的欲求への葛藤を抱えながら、生きていることが示されている。巷に溢れる本では「死ぬまで現役」「女であり続ける」という謳い文句での出版物はあるものの、高齢期の性の一面を切り取り、商業的に成立するもののみが取り扱われているのみである。真に高齢者がどのような性的欲求を持ち、どのように対処するかということについては、周知されていない。

まず、高齢者にも性的欲求があるということを認識することがまず第一にあり、性器間の接触だけでなく、皮膚間の接触(スキンシップ)がもっとも大切という研究書も紹介されている。

第2章では「理想」と「現実」と題し、シニア婚活(現状はかなり厳しい)、夫婦間のギャップや満足度についての現状(夫婦間のスキンシップの少なさ、関係再構築についてもブランクがあれば難しい)や単身高齢者の事例を紹介しているが、現状はかなり厳しい状況と言える。

第3章では高齢者と若い女性の関係(今の言葉で言えばパパ活か経済的充実が得られている男性にのみ許されているといえる)、風俗、AVという男性側を取り巻く状況や、女性側ではグッズの使用やマッサージもあるという。まとめとして性的貧困へのサービス、コンテンツ利用への抵抗感や、2章で紹介した夫婦間の再構築の厳しさ等々を挙げ、次のようにまとめている。

非日常と日常の中間地帯に、緩やかに性的なものと触れ合い、語り合えるような居場所 が社会の中に増えて行けば、いくつになっても自分なりの仮のパートナーを見つけやすく なるはずだ。(中略)「老後の性生活はかくあるべき」という世間の固定観念や 偏見、そしてメディアが振りまく軽薄な幻想に惑わされてはならない。 たとえ他人や世間 からみて惨めな状態、滑稽な状態に見えたとしても、誰を(何を)パートナーとして選ぶ かを決めるのは、あくまで自分自身だ。「私の性は、私が決める」という性の自己決定原 則は、生涯を通して不変である。そして人生の最終ステージを誰と何と) 一緒に過ごす のかを決めることは、全ての人に与えられた最後にして最高の自由なのだから。P140~140(ここで述べられているパートナーとは人間だけでなく、メディア、グッズ等も指す)

介護現場での性的行動は問題行動として捉えられ、あってはならないもの、抑えるべきものと思われているが、あって当たり前のものとして肯定的に捉え、関係機関との連携、社会資源の活用という試みが行われているという。セクハラ行為のような性的問題行動を当事者からのメッセージとして支援者がその背景にあるものを理解していく必要がある。信頼関係の構築、マッサージ、清拭...などで性的欲求が満たされるというのはこうあって欲しいという支援者の希望的観測であるかもしれず、性的欲求の充足は健常者であっても難しいものであり、高齢者で介護状態にあり認知症を抱えている場合さらに難しいものである。筆者は結論として性に対する合理的配慮」の徹底をあげている。例えば触らせてあげる等の施し的なものではない。日々の生活のプライバシーの確保や自慰行為の支援を通じて必要最低限の性の健康と権利の確保が現場で求められているという。

シュカ's MEMO 介護施設で、利用者からの性的発言や、触る、見せるなどの行為の現場に当たったことは一度二度ではありません。そう考えると、高齢者の性的欲求はあって当たり前という解説が良くわかります。抑圧すべきものではなく、人間としてそういう欲求があることを、まずは認める意識で臨みたいと思います。ただ、受け流す以外の対応は難しいですよね。職員へではなく、利用者が利用者へ、という場合は更に難しいです。触る等は注意してやめてもらう対応を現在取っていますが、では、その気持ちはどこへ持って行き、どのように対処するかということについて、臨機応変に出来ないな、と感じます。筆者も健常者でも難しい性的欲求の処理はまして高齢者、認知症当事者への対応支援は難しいというのはよくわかります。色々な成功事例等を知りたいと思います。

『認知症の人の心の中はどうなっているのか』

 

認知症の人と何を話せばいいのか。同じ話を繰り返す。家に帰りたいと言う。言っても理解されない。介護者の意図が伝わらない...認知症の人とのコミュニケーションは難しいという先入観や実体験があります。でも、本当のところ、認知症の人はどう感じているのかなどを、最新の研究踏まえて、実際にどういうコミュニケーションがあるかを示してくれています。

テレノイドというちょっと不気味な外観のロボットを使うと、驚くほど会話をする方もいます。認知症の症状の特性から、外観が無機質のテレノイドに自分の中の誰かを投影させたりし、誰か分からないというような不安を払拭し、会話ができるというものでした。

 

認知症の人の特徴として、

①相手の気持ちを読めない

怒り、悲しみを読み取れず、嫌悪、驚き、喜びは読み取れるというものがあります。嫌悪を前面に感じ嫌われていると感じることが多いとのことです。

②第一印象を変えられない

一旦思い込むと容易に変わらないので、こちらこを信用してもらうには笑顔で接して第一印象をまずはよくしておくことが大事です。

③周囲の人を個人として認識出来ない

集団として周りを捉えている限り、敵意や疎外感を抱いていると思われます。介護者が個人として認識されれば、安心や信頼に変わる可能性があります。そのためにはコミュニケーションが大事なのです。

実際の現場ではコミュニケーションは少ないという調査結果もあり、介護職員が利用者との会話は業務時間の1%、しかも会話内容の77%は介助の際の声掛け、日常会話は15%だそうです。認知症の利用者は日常会話をする機会が少ないから話さないということを示したデータです。話せないから話さないのではなく、話す機会がないから話さない。

また、夕暮れ徘徊と呼ばれる「家に帰りたい」という訴えは「ここにいたくない」と解釈し、「ここにいたい」に変わるように居心地のよい場所変えて行くことが必要とし、コミュニケーションのあり方を考えさせられました。

 

著者は認知機能がどのような状態かを日常会話によって特徴を捉える「CANDy」を開発しています。

単に今日がいつかとか、計算問題、覚えた単語を思い出す問題で認知機能を測るのではないので、介護社、当事者双方に負担が少なくこれを活用して今の状態を把握し、適した会話ができるというものです。

CANDy(日常会話式認知機能評価)公式ホームページ

『GoGo! 介護』

 

Go Go! 介護

Go Go! 介護

Amazon

イラストレーターで介護士の著者によるコミックエッセイ。

特養〜訪問介護という職歴から、初めて介護業務についた時に感じた緊張感、怖く感じた先輩職員も、こういう接し方やこんな一面あるという発見、様々な利用者さんの様子とその対応をコミカルにわかりやすく描かれています。

介護って大変なんでしょという世間一般の見方がありますが、例えば排泄介助って大変というのもこんな感じでした、と慣れていく様子には共感しました。暴言を吐く利用者さんの別の一面、訪問介護で利用者さんが出てこないという焦りと対応などの他、重度認知症の方の一言に思いをめぐらしたり、人と接することで日々色々思い感じることがある、というのが伝わってきます。

「不自由でも豊かなキヨさんの話」と「生きると決めたセンムの話」を読むと、生きるってことってなんだろうって考えます。キヨさんは自力で動けないけども、感情が豊かで、色々なことに挑戦しています。センムは筋ジストロフィーの他色々疾患があり、寝たきりです。作者が「もし病院で寝たきりになったら死んだほうがマシだよね〜」という回想の一コマの後、センムがその状態になって生きてやろうと思ったと語ります。実際にこのような方々と出会った事はないのですが、このコミックを通じて、人間が生きることやそこから感じ取ったものが伝わってきます。

番外編で「古武術式介護」を少し紹介されていましたが、興味を引きました。提唱者は岡田慎一郎さんという方だそうです。気になる!

『不幸な認知症 幸せな認知症』

 

アルツハイマー認知症ってなにが違うの?」と利用者さんに聞かれたことがあります。実際に認知症の方と関わる機会がなければ、イメージだけが独り歩き、何もできない、暴れる、廃人になるなど、否定的なものばかり浮かびます。わからないと不安ばかりが大きくなります。この本は、認知症って何?治るの?薬でよくなるの?もし自分がなったら、身近な人がそうかもという心配など、「認知症ってよくわからない」と思っている方向けの本です。

誤ったイメージを払拭し、薬のこと、症状、予防とは、どう接すればなど丁寧に書かれています。

認知症軽度と診断された

あなたの脳は95%正常です。

感情面もその場の理解力も問題はありません。

人ときちんと話すこともできますね。

そんなあなたに無理解な人がいたら怒りたくなるでしょう。

その気持ちは十分にわかります。

P65

初期の認知症と進行した認知症ではだいぶ違います。そういう点では人と初期に診断されても95%正常と自分で認識し周りも特別なお世話が必要な何も出来ない人として接しないでくださいと説いています。

認知症って何か知りたい方、自分も年取ったらなるのかという不安のある方、身近な認知症の方とどう接すれながらいいのと思う方にオススメです。

『認知症のトラブル対処法』

 

コウノメソッドと呼ばれる河野和彦医師による認知症の症例と薬物投与についての解説が主な内容です。おかしな行動が見られる等で受診し、アリセプトなどの薬が投与されたものの、症状が酷くなるなどで困っている家族に向けの本です。コミュニケーション等については少々触れられているものの、認知症の方に寄り添うだけで解決出来ない暴力行為にどのような薬が有効で、薬の見直しを提案するのに役立つ知識になりそうです。

また、米ぬか脳活性食(フェルラ酸とガーデンアンゼリカが主成分のサプリ)、赤ミミズエキスもいいそうです。

シュカ's MEMO  

米ぬか脳活性食、赤ミミズエキスというのは初めて聞きました。私の興味関心は認知症の方とのコミュニケーションなので、こういう本は参考に留める感じです。